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福島にみみをすます

福島に、みみをすます
~福島の人たちから聞いたことばから~
                       福島の子どもを招きたい!明石プロジェクト代表
                             小野 洋 (スロースペース・ラミ)

 「人はこんなにも逃げれないものか…。」
 初めてお会いした「放射能から子どもを守る福島ネットワーク」代表の中手聖一さんから聞いた最初の言葉が、胸を刺す。
 「長年、反原発運動に取り組んでいて、もし事故が起こったときは、自分が一番最後に避難しようと思っていました。しかし、実際に事故が起こってみて、それが本当に甘い考えだったことを思い知らされました。」
 
 中手さんが言うとおり、今、一番先に避難させなければならないはずの幼い子どもたちですら、その多くが放射線管理区域を超える放射線量の中で暮らしている。放射線管理区域では、子どもたちが入ることは許されない、ものを食べてはいけない、放射性物質を扱う仕事に従事する人も、できるだけ早く立ち去らなければいけない。東日本大震災の被災地のことが、ニュースの一つにしかならなくなった今、まだ多くの人たちが、こうした異常な状況の中で生きている。そのことにせめて一日一回だけでも心を馳せる人が、どれくらいいるのだろうか。

 「夏休み中に引っ越す友達がたくさんいます。でもみんな、そっと逃げるようにして行かなくてはならない現状だそうです。現に引っ越す事を知り合いに報告した私の友達は、『あなたみたいな人がいるから風評被害が広まるのよ!』とせめられたそうです。ただ親は子どもを守りたいだけなのに、その事を批判する声も多いのです。」
 これは、私たちが昨年の夏休みに実施した「明石であそぼう!たこ焼きキャンプ」に子どもを参加させたお母さんの声。

 こんな声もある。
 「周りのお友達は日を追う毎にどんどん転校していき、親同士も次は誰がいなくなるのかと疑心暗鬼で皆イライラしています。避難するお友達を見ると、私自身も『数年後に子供が癌になる』と宣告を受けたような気分になり、落ち込んでいました。子供達が将来受けるであろう差別の事、孫の代にわたるまで健康被害が続くのではないか…と不安は尽きません。」

「夫を関西に呼びたいんです。でも、今の福島の中で他県に移住するということは、地域の人を裏切って逃げるということなんです。一度出たら二度と戻らない、そういう覚悟で引っ越さないといけない。」
「夫は福島から一歩も出たことのない人で、関西で仕事が見つかるか、こちらになじめるか、とても不安で地元を離れることができません。でも、私は二人の幼い子どものことを考えて、関西にずっと住み続けたいと思っています。」
「夫は仕事で忙しく会いに来ることができません。福島と神戸の二重生活で貯金も減っていきます。夫を呼び寄せるか、福島に戻るか、毎日悩んでいます。」
懇意にしているこのお母さんだけでなく、県外に母子避難している方たちからは、同じような声をよく聞く。福島から避難できればそれでよし、ではまったくないのだ。幸いに神戸でいい出会いがあって、落ち着いて暮らすことができている、この親子ですら、毎日悩み続けている。

福島県内では、今は「復興」一色だと、A先生は言う。どこもかしこも「がんばろう!ふくしま」のスローガン。地域での会話も、放射能の「ほ」の字も言葉に出せない雰囲気だという。学校でもあたりまえのように屋外で子どもたちが活動する。そんな中で、A先生は、ときどき自分の方がノイローゼになったのではないかと悩むのだという。
A先生の自宅の玄関前の土を線量計で計ると、毎時4~5マイクロシーベルトあるのだという。一年間その上で生活すれば、40ミリシーベルトの被曝をする。一般の人に認められる年間被ばく量は、1ミリシーベルトであると、日本の法律は定めている。

福島の中通り地方の仮設住宅の子どものケアに取り組んでいるNPOの職員からは、こんな声も聞いた。
「お金はけっこう回って来るんです。地元の学生もボランティアに来てくれる。でも、経験があってコーディネートできる人がいない。誰か来てほしいとも思うけど、自分自身、ほんとにここに居ていいのか、と思いながらやっているんです。」
福島市、郡山市などの主要都市がある中通り地方には、震災の被災者向けの仮設住宅がたくさん建てられた。津波と原発事故で家を失った人にとって、目の前の課題は放射能ではなく、これからどう生活していくか、ということである。

移住できる人は、すでにもう他県に移住してしまっていて、さまざまな事情で動くことができない人たち、放射能についての情報をインターネットなどで得ることがなく、マスコミや権威ある大学教授の話を信じている人たち、経済的に移住が難しい人たちが、福島県内に残っている状況だ、と、いろいろな方から聞いた意見は一致していた。そしておそらく、みんな心の中に不安をかかえながら、耳をふさぐことで、なんとか暮らしているのだとも。
想像してみてほしい。ここ関西が、神戸が、福島と同じ状況になってしまったときのことを。ここから逃げれないと思ったら、「なんとかなるだろう」「きっと大丈夫」「暗い話はもう聞きたくない!」と、思うのがふつうだと思う。その中で、厳しい現実を受け止める「正気」を、はたして私は持ち続けることができるだろうか。


「家は農家をやっていて、父親・母親のこと、ずっと続けてきた果樹園のことなどを考えると、とても他県に引っ越すなどできません。せめて保養という意味で、こうして夏休みの間、関西に行けるというのは、とてもありがたいことです。」

「夫の仕事の関係で、震災の起こる数か月前に福島に引っ越してきたんです。夫の仕事は原発事故の被災者の支援にも関わる仕事で、やめてしまえば大変なことになる人たちがたくさんいます。他県から来てくれる人がいれば、他県に転勤できますが、こんな状況では誰も来ません。子どものことを考えると避難したいですが、仕事を辞めるわけにもいかず、とにかく食べ物に気をつけたり、免疫力を上げるためにできるだけ暗くならないしかない、と覚悟を決めています。」

「避難するか残るか、悩んでいるお母さんより、福島に残ると決めたお母さんたちの方が元気ですよ。だって、残ると決めれば、食べ物はどうするとか、放射線を防護するためにこうするとか、やるべきことがはっきりしますものね。」
こう語るのは、福島市内で県外産の無農薬野菜を販売し、お母さんたちが集まれるスペースとして開店した「野菜カフェ・はもる」の店長さん。このスペースも「放射能から子どもを守る福島ネットワーク」が運営している。

福島県内で、子どもたちを放射能から守る活動をしている人たちの考え方も、厳しい状況に対応するかのように、多様だ。

かつて福島で脱原発運動の草分け的な存在であった果樹園農家の方から聞いたのは、こんな言葉。
「県外の脱原発運動をしている人から、『なぜ逃げないのか?』と、よく言われる。若い生産者には避難を勧めるが、私はここに残ることを決意した。この農園の土を守ることで、福島の農業の未来につななげたい。果樹園は、私のものではなく、私が祖先から預かり、子孫へ残していく遺産。たとえ、この桃がまったく買ってもらえなくても、果樹園の土を守るために、私はここで農業を続ける。」
そう語るこの農家が出荷した桃は、肥料などにさまざまな工夫を凝らしたのもあってか、キログラム当たり1ベクレルまで計れるきわめて精度の高い検査を受けても、放射能を検出しなかったという。

たまたま参加した、福島市内の「市民放射能測定所」のホールボディーカウンターの測定結果の報告会では、「子どもには絶対に国外の魚しか食べさせない」というお母さんと、「いろいろ悩んだが,親をついで福島で有機農業を続けていくことを決心した」という若い農業生産者が、続けて発言していた。この両極が共存しなければならない、どちらを選択するかを個人個人が決めなければならないのが、福島の現実なのだ。真向から対立するような意見と行動が存在しながら、お互いを責めあうのではなく、ともに生きていくことを模索している人たちがいるのだ。

昨年9月19日の東京の集会で、三春町で喫茶店を営んでいた武藤類子さんはこう語った。
「毎日、毎日、否応無く迫られる決断。逃げる、逃げない。食べる、食べない。こどもにマスクをさせる、させない。洗濯物を外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。なにかにもの申す、黙る。
 様々な苦渋の選択がありました。」
 「そして今、半年という月日の中で次第に鮮明になってきたことは、事実は隠されるのだ、国は国民を守らないのだ、事故は未だに終わらないのだ、福島県民は核の実験材料にされるのだ、莫大な放射能のゴミは残るのだ、大きな犠牲の上になお原発を推進しようとする勢力があるのだ、わたしたちは捨てられたのだ…。
 わたしたちは、疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。
 でも、口をついてくることばは、『わたしたちを馬鹿にするな』『わたしたちの命を奪うな』です。
 福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。」
 「ひとりひとりの市民が、国と東電の責任を問い続けています。そして『原発はもういらない』と声をあげています。わたしたちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です。」


 国や東電の責任はもちろん重く、それから逃れようとしている現状は許しがたい。しかし、この状況を作り出してきた責任の一端がある、私たち自身のありようはどうなのか。
 「関西の知り合いに『なんで逃げないの?』と責めるように言われるんです。そんなことを言われなくても逃げれるなら逃げたい。母親として、『なぜ逃げないのか』と言われると、子どもをみすみす危険にさらしていることを責められているようで、とてもつらいんです。」
 「それで、その知り合いに、ためしに『じゃあ住むところを探してくれる?』と聞いたら、『そんなこと、なんで私がしなくちゃならないの?』と、電話を切られました。」
 このお母さんも、関西に移住できないか、悩んでいるという。

 そんな状況の中、昨年夏にキャンプを行ったことは、いったい何かの役に立ったのか、と今でも自問する。子ども28人、保護者6人、たった二週間弱のキャンプでも、へとへとになった私たちには、セシウムの排出のために必要な30日から60日の長期の保養キャンプなど、とても無理な話だった。
 それでも、参加者の親御さんたちからは、身に余るほどの感謝の言葉をもらった。

 「ブログを拝見して、本当に多くの方々が、福島の子供たちのために関わって下さっていたことを知り、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。親としては、縁もゆかりもない遠い明石で13日間も過ごせるのか、何かご迷惑をおかけするのではないかと不安に感じていましたが、真っ黒に日焼けして帰ってきた息子を見て、本当に良かったと思っております。今の福島ではあり得ない、とても贅沢な日々を過ごさせていただきました。
 息子はとても楽しかったようで、『大きくなったら明石に住みたい。外で遊べるから』。夏休みの宿題にも、明石のことばかり書いています。『福島ではダメだけど、明石では地面に触っても大丈夫なんだよ』とも教えてくれました。」
 「帰郷後、子供達は、またマスクと長袖の日々になりました。不自由で窮屈な毎日を過ごしていますが、息子が成長した暁には、明石でのご恩を忘れずに、今度は息子が社会に貢献できる人間になってくれればと願っています。本当にありがとうございました。」


 ほんとうに償いきれない、贖いきれない大変な事態の中ではあるが、今、どう行動するかで、この国に、この地球にどんな未来を残すのか決まってくるようにも思える。少なくとも、自分たちが犯した罪を、福島とその周辺の一部の人たちに負わせて知らぬ顔ですごすような社会を、私は残したくない。
 ささやかな取り組みながら、「明石であそぼう!たこ焼きキャンプ」を今年も行うことを、仲間たちと決めた。関西のあちこちで、同じようなキャンプを計画している人たちがいて、少しずつネットワークもできつつある。
 全国でもそうしたつながりを深めるために、2月11~12日、福島で「放射能からいのちを守る全国サミット~みみをすます」が開かれることになっている。主催者の一人、吉野裕之さんは、「関西の人の熱い気持ちを、ぜひ閉塞状況にある福島に持ってきてください!」と言う。全国から気持ちを同じくする仲間が集まり、放射能の防護、一時保養キャンプ、避難の権利の確立などについて語り合い、福島の人たちとも交流することになっている。
 おそらく、今一番必要とされることは、何ができるということではなく、「フクシマ」に自分なりに出会い、「ふくしま」とともに生きることに、一人ひとりが近づくことではないかと思う。

 「毎日たくさんの愛につつまれて、あの幸せそうな笑顔でいられたのですね。私は毎日ブログでその笑顔達を見ながら、見ず知らずの子ども達にこんな大きな愛をくださることに、毎晩涙が止まりませんでした。こんなにたくさんの愛をくださるんですもんね。私たちもがんばらなくちゃ、と心から思いました。明石での子どもたちの笑顔が、福島でも見れるようになる為に。」


※「明石であそぼう!たこ焼きキャンプ」ブログ http://takocamp.exblog.jp/
 「放射能からいのちを守る全国サミット」ブログ http://inochizenkoku.blogspot.com/
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