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原発事故で深く考えさせられたこと(2) 「反いのち」としての放射能

 私が「ラミ中学校」という市民立の学校に関わるようになった一番大きな動機は、単純に言えば「子どもたちが思う存分遊びまわり、駆け回り、その力を出し切って、いのちそのものを生きている姿が見たいから。そんな子どもの隣に居たいから。」ということに尽きる。
 「かわいそうな立場にいる子どもたちを救いたいから」とか「子どもの教育をよくすることで、日本社会を変えよう」とか、そういう立派な動機では決してなかった。
 ただ、生きいきと自分らしい光を放っている子どもの姿が好きなのだ。それは、元気で明るい子がいいという意味ではなくて、それぞれの子どもの「色」に応じて、それぞれなりの在り方でそれぞれ深い味わいがあって、とても面白いということ。ラミ中で出会った子どもたちも、十人十色、「ひぇー!」という思いをさせられた子どもも含めて、みんなみんな個性的で、すべていい出会いだった。
 もちろん、自然の中で、野外で、仲間とともに元気いっぱいに遊んでいる子どもの姿も大好きである。

 今、福島県の多くの子どもたちが、屋外に遊ぶことができないでいる。
 子どもたちが転げまわって遊ぶ場所である公園が、理不尽にもアスファルトの道路より、放射線量が高くなっている。子どもが運動するための校庭からも、とんでもない数値の放射能が検出される。身長の低い子どもほど、まいあがった土に含まれる放射能を吸って内部被ばくする危険性が高いのだという。コンクリートやアスファルトの上は、放射性物質が降り注いでも、雨で流され風で飛ばされてしまうが、土の上だと放射性物質が沈着していくのだという。
 体育も部活動も遊ぶのも屋内…。十分に体を動かすことはできない。ただでさえ、かつての子どもたちに比べれば、外で遊ばなくなったと言われる子どもたち。そういう状況に、とどめを刺すかのような出来事だ。
 学校で、机の前に座って、ただ知識を詰め込むことで子どもが育つということはない。子どもが屋外の自然の中に出て、仲間とコミュニケーションしながら様々な体験をする。そういう「遊び」の世界がふんだんにあって、はじめて人間として育つことができるのではないか。
 少なくてもある世代から上の人たちは、そうして育ってきた実感があるはずだと思う。

 そうした屋外での経験の機会を、原発事故は根こそぎ奪ってしまったのだ。

 土の上よりもっと放射能が沈着しやすいのが、植物の生えているところだという。また、校庭の土なら表面を削り取ることで放射線量を減らすことができるが、たくさん木の生えた山や森が汚染されると、木を伐採して植え替えでもしないかぎり、放射能を除去できないのだという。だから、コンクリートの多い都会よりも、自然豊かな農村部の方が、より深刻な状況になる。
 原発事故から間もない時期に、キャベツが出荷停止となり、福島県の農家の方が一人自死された。精根こめて作っていたキャベツは、とても人気があったという。作られていたキャベツは、いわばその農家の方の「いのち」そのものだったのだ。
 農薬も化学肥料も使わず、一生懸命手をかけて育てた野菜にも、風で飛ばされてきた放射能は降ってくる。人のいのちにやさしいようにと育てても、理不尽に容赦なくセシウムが降り注ぐ。
 逆に、やや人工的な感じのするハウス栽培なら、放射能汚染は軽減する。最近できた「野菜製造工場」ならば、かなり安全になるだろう。その代わり、野菜の本来の「いのち」は薄くなっていく。

 この夏はまたも猛暑だと言われている。
 クーラーをつけずにできるだけエコに過ごそうと思えば、家の窓をあけて自然の風を入れるのが一番。 
 しかし、本来屋内退避しなければならないほどの放射能が外気にあったら、それはできない。扇風機でなんとかしのぐにしても、わずかだが電気を使う。もっと快適にしようと思ったら、「やっぱりエアコンを」ということになるのだろうか。
 地球温暖化のためにやってきた猛暑、その原因は化石燃料の燃やしすぎだ。そして、原発事故のために、もしエアコンがどうしても必要になったら…。超危険な原発の事故のせいで、結局超危険な原発を動かし続けるしかないとしたら、これも悪夢だ。でも、この悪夢が、今夏、福島の人たちが直面する現実になりかねない。
 もちろん、原発がなくても電気は十分に火力・水力でまかなえる。だが、化石燃料を燃やすという問題がまだ残る。
 放射能も、温暖化もなくて、窓を開け放ち、網戸や蚊帳をはり、風鈴の音色を聴きながら、夏をそこそこ涼しく過ごせた時代がつい最近まであったのだ。

 原発は、とても便利で快適な社会を一瞬だが作り出すことに貢献した。
 そして、原発事故が起こり放射能が放出された。
 放射能は、子どもたちから野で遊ぶ機会を取り上げ、農作物を自然に近いやり方で育てることを不可能にし、家の中に外の空気を取り込むことを禁じる。原発事故は、子どもたち、農作物、夏の夜の家の自然な姿をことごとく破壊したのだ。「いのち」本来のありようを壊したのだ。

 子どもの「いのち」本来のありようを壊してしまう原発を、私は許すことができない。
 心を込めて作られた野菜の上に、放射能をばらまく原発を、私は許すことができない。
 夏の夜に自然の風で涼むささやかで豊かな生活を奪う原発を、私は許すことができない。
 原発は、「いのち」と相容れないのだ。

 さらに深く考えれば、原発そのものが「反いのち」を象徴するような存在だったのではないか。
 原発は、「快適で便利で、限りなく発展していく社会」の象徴だったように思う。「原子力は明るい未来」だと。
 しかし、その「便利・快適・発展」の社会は、「いのち」の持つ方向とは、逆の方に進んでいたのではないか。「子どもが外で遊ばない」「野菜を効率よく農薬で育てる」「エアコンで家の中を快適にする」…それらは原発が象徴する効率至上社会の姿だ。それは、人の生命にとって本当にいいことと言えるだろうか。
 多少不便でも、子どもたちが自然の中でのびのびと遊べ、安全な野菜が食べられ、夏をすだれと風鈴で涼しく過ごせる方がいい。この原発事故をきっかけに、みなが目を醒まし、もう一度「いのち」の道に立ち返るべきではないのか。


 今、大量に地中に取り込まれている放射性物質の一つ、セシウムを除去する方法として、ひまわりや菜種を植えることが検討されているという。チェルノブイリの汚染された大地でも実際に行われている方法だ。ひまわりや菜種の茎がセシウムを吸い取り、蓄えてくれるのだという。さらに放射性物質を取り込む微生物の話も耳にした。
 思えば、放射能の害は、それが発する放射線が生物の細胞を傷つけることにあった。ところが、ある程度までの放射線による傷なら、生物の生命力である自己回復力によって再生することができる。免疫力が高ければ、それだけ放射線への耐性も強くなる。(原爆が投下された広島に救援活動に入った医師たちが、免疫力の高まる日本の伝統食を守っていたために、被曝を極力抑えることができたという話がある。)

 「反いのち」である放射能を、「いのち」である植物や微生物が、己の身を挺して吸い取ってくれる。
 放射線によって撃たれた細胞の傷を治すのも人間の「いのち」の力だ。

 原発による未来を選ぶのか、それとも「いのち」の道に立ち返るのか。
 今それが問われている。
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コメント

全く同感です。

免疫力を上げる方法として、大人も子どもも「祈る」事は素晴らしい力があるかもしれません。

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